若い頃、先輩の先生から教えてもらった言葉がある。
「地域の人からの頼まれごとは、ご馳走やと思っとき。『はい、喜んでー』ぐらいのノリで引き受けるんやで」
当時の僕には、正直そこまでピンときていなかった。学校は忙しいし、授業も学級のこともある。予定になかったことが一つ入るだけで、「行ってくれるって言ってるんやし、任せたらええやん」と思ってしまうこともある。
でも、その先輩は違った。
「行くで」の一言
5年生を担任していたとき、総合で米について学習していた。収穫した米を精米することになり、地域の方が精米所まで運んでくださるという話になった。
僕は、そこまで一緒に行く必要はないと思っていた。ところが、先輩は話を聞くなり、
「行くで」
とすぐに言った。
結局、僕も一緒についていき、重い米俵を運んだ。地域の方はずいぶん喜んでくださって、「ほんまに助かった」と感謝してくれた。
そのとき先輩に言われた。
「こういうところで顔を売っとくんや。普段はつくれへん信頼ができる。その信頼に、いつか救われることがあるかもしれんからな」
そして続けて、「どれだけ疲れてても、忙しくても、一緒にやった記憶はあとでプラスになって返ってくる。だから、ご馳走やと思って、おいしくいただくんや」と。
なるほどなあ、と思った。

本当に救われたのかは分からない
それから年月がたったけれど、「あのとき手伝ったから助かった」と言えるような出来事があったわけではない。
ただ、地域の方に自分のことを覚えてもらっているのは悪い気はしない。運動会などで顔を合わせれば、こちらから声をかけることもあるし、向こうから声をかけてもらうこともある。
そんなとき、いい関係でいられているなと思う。
僕が知らないところ、見えていないところでも、何かしらの効果はあるのかもしれない。「あの先生はようやってくれるで」と誰かが言ってくれているかもしれないし、もちろん逆だってある。
評判みたいなものなのだと思う。
目には見えないし、点数にもならない。でも、人と人との間には少しずつ残っていく。
子どもは、先生の姿を見ている
別の先輩から教わったこともある。その先生は、掃除の時間になると、子どもたちと一緒に雑巾掛けをしていた。
立って指示をするのではなく、自分もしゃがんで床を拭く。
子どもからしたら、「えっ、先生もするん?」となる。
僕は、その姿を見て感銘を受けた。学級経営が上手で、保護者からの信頼も厚いベテランの先生だった。きっと、こういうところなんやろうなと思った。
今も僕は、なるべく掃除の時間には自分も動くようにしている。拭き掃除をしたり、子どもたちがあまり手をつけないところを掃除したりする。
とはいえ、毎日欠かさずやっているかと言われると、そこまでは言えない。できていない日も普通にある。
でも、できるだけそうありたいとは思っている。
言葉も同じだ。丁寧な言葉遣いをしている先生の教室では、子どもたちの言葉も丁寧になっていく。運動が好きな先生の教室では、運動を楽しむ子が増えていくこともある。
教師は、子どもにとって毎日出会う身近な大人だ。それだけに、僕らが思っている以上に、先生の「人となり」は子どもに伝わっている。

信頼は、たぶんこういうところから
一緒に掃除をする。頼まれたときに気持ちよく動く。地域の方にきちんと挨拶をする。
どれも、特別な教育技術ではない。
でも、そんな姿を子どもが見ているかもしれない。たまたま来校していた地域の方が見ているかもしれない。他の先生の目に入ることもある。
実際、僕自身が先輩の雑巾掛けを見て、「こんな先生になりたい」と思った。
信頼は、一回の大きな出来事でできるものではないのだと思う。誰も見ていないようなところでどう動くか。頼まれたときにどんな返事をするか。そんな地道なことが、少しずつ積み重なっていく。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」とは少し違う。何でも引き受ければいいとも思わないし、先生が無理をし続ける必要もない。
ただ、「これは自分の仕事じゃないから」とすぐに線を引く前に、少しだけ動いてみる。
若い頃に教えてもらった、
「地域の人からの頼まれごとは、ご馳走や」
という言葉を、今でもときどき思い出す。
あのとき運んだ重い米俵は、地域の方との関係だけではなく、僕自身の教師としての考え方にも、ちゃんと残っている。
だから今でも、できる範囲で、
「はい、喜んで」
と言える人でいたいと思う。


